少女は私の拠り所だった。










□■□










その日、寂れた街並みの寂れた教会に、葉達は一晩泊めて貰えることになった。
日も落ちてきた所為か、路地の人通りは少ない。

さっそく竜の姿が見えないと思ったら、どうやらトカゲロウにせがまれて映画館に行ったらしい。

「………?」

ふと、隣の頭一つ分低い少女を見やる。
その顔つきに、蓮は何となく察した。

「……お前も、観たいか?」
「っ、えぇっ?」

弾かれたように、真ん丸になった二つの瞳が、此方を見つめてきた。
どうやら顔に出ていたことに気付かなかったらしい。

「い、いい! いい! だいじょうぶ」

そう言って、は首を横に振った。
―――若干慌て過ぎじゃないかとも思った。

「…どうして赤くなる」
「え、あ、え…!?」

蓮の言葉に、益々はあわあわと己の頬に手をやった。

実はこれが初めてではなかった。
蓮が何気なく声をかけただけで―――彼女は飛び上がらんばかりに反応して、焦ったように赤くなった。
一度などは持っていた物を落としそうになって、蓮の方が慌てたぐらいだ。

(………具合が悪い、訳でもなさそうだが)

彼女がそうなったのは―――あの朝からだ。
温泉宿での、あのまっさらな朝。

けれども、もっと訳が分からないのは。
そんな彼女の様子を見ると―――なんとなく、此方も気恥ずかしさを覚えてしまうことだった。
うっすらと頬の熱さを自分でも感じながら、蓮は内心首を捻る。何だこの空気。

を見る。
その耳が赤くなっていることは確認できたが―――彼女は俯いたままだった。
別に気まずい訳でもない。
お互いがお互いを望んだ結果のこの距離だ。やっと普通に隣に立てるようになったのだ。
なのに―――どうして、恥ずかしいのだろう。
まともに視線を合わせることすら難しい。

そんな様子だからか、この二人の雰囲気が変わったことに、実は誰もまだ気付いていなかった。

「あ…わ、わたし、さんぽっ、してくる」

は勢い込んでそう言うと、誰の返事も待たずにそのままぱたぱたと駆けて行ってしまった。
その背をちらりと横目で見て―――蓮はひっそりと詰めていた息を吐いた。
せっかくまた、傍にいられるようになったのに。
どうしてだろう。何故、前と同じにはならないのだろう。
前とどこが違うのか―――それは、気持ちの変化。
彼女の方までは推し量れないが、少なくとも蓮の中で―――ひとつだけ、変わったこと。

それは、彼女に対する気持ちだ。

「………」

の背が見えなくなっても、蓮はそのまま遠くを見つめていた。
好きだと認識しただけで。
こんなにも、変わるものなのだろうか。

こんなにも――――意識してしまうものなのか。

(…参った)

これではまともに会話も出来ない。

「どうかしたんですかねェ。ちゃん」
「顔赤かったぞ。また具合でも悪くしてるんじゃねえのか」
「いや、それならさすがにもう言うだろ。オイラ達に」

竜とホロホロ、葉がそろって首を傾げる。



――――わたしね、もっと、つよくなる



ふと耳の奥で甦るのは、あの朝、ぽつりと彼女が告げた言葉。
とても静かな声で、けれどもそこには、確かな意志が宿っていて。

『泣いたり、倒れたり、怖がったりしない。蓮に心配かけないぐらい、つよくなる』

はっきりとそう言った彼女はそして―――驚いている此方の顔を見て、微笑ったのだ。

『まもってくれて、ありがとう』
『……わたしを守るために、離れてたの』
『だから』

ありがとう

その表情は、これまで蓮が見てきた中で、いちばん―――大人びた笑顔だった。
ああ彼女もそんな顔をするのかと。
幼いだけの彼女では、もう、ないのだと。
最初からずっと一緒にいて、ずっと見てきたからこそ見出せた―――確かなの成長ぶりだった。



(…なんて、まるで子を持つ親のような気分だな……)

とあの朝の出来事を思い返しながら、複雑な気持ちになる蓮だった。

――――――それに。

蓮は、そっとリゼルグを見やる。
あの温泉宿で、蓮がの部屋に行ったあと、彼は危うく敵の罠にはまってやられるところだったらしい。
そんな彼のこともまた―――の口から聞いていた。

ずっとそばにいてくれたこと。
たくさん励ましてもらったこと。
とても―――たいせつな、人だったこと。

思っていた以上にの口から彼のことが出てきて、蓮は少しだけ驚いた。
そしてだからこそ――――彼が、のことを本気で大事にしていたこともわかったのだ。

けれど。

『でも……応えられなかった』

どきりとした。
彼が―――リゼルグが、そこまで思い詰めていたことに。

けれどは拒んだと言う。
そしてそこから―――距離が出来てしまったのだと。
拒んだ理由をは語らなかったが、蓮も余り突っ込んで尋ねようとはしなかった。何となく触れてはいけないような気がしたのだ。にとっても、リゼルグにとっても。

そして―――ハオのこと。千年前のこと。
ぽつりぽつりと、は話してくれた。

俄かには信じがたい話だった。
が見たという夢も―――ただの夢だと言ってしまえばそれまで。
けれど、シルバが教えてくれた星の乙女のこともある。何度も転生をする存在。もちろん千年前だって彼女は居た筈だ。
そして―――彼女にとって夢は、グレートスピリッツとの絆だ。
ならば、

(グレートスピリッツは……に思い出させようとしている…?)

ふとそんなことを思った。
でも、の様子を見る限り―――――彼女はどこか、怯えているようだった。

『わたし、ハオの事…すきじゃない。すきじゃないの。でも』

夢の中の彼女は、確かにハオに惹かれていて。
その想いはとても強かったのだと。
―――そしてそれに呑みこまれそうで、怖いのだと。

自身は望んでいそうにない。
でも―――もし、グレートスピリッツが思い出させようとしているなら。
それは、将来的には…彼女のためになるのだろうか?

とハオの関係。
たとえそれが千年前のことだとしても―――胸の奥が、小さく軋む。

「………」

考えても答えは出ない。
結論を急ぎ過ぎてもいけない。
ならば、今は。

彼女が望まないのであれば―――それが蓮にとっての、今の答えになった。
自分が想うのはグレートスピリッツではないのだ。
大切なのは―――彼女自身だから。

(……ハオ)

葉の先祖だと言う。
の伴侶だと言う。


まるで姿の定まらない、雲を掴もうとしている気分だった。




















(………なんでこんな風になっちゃうんだろう)

こつん、とつま先に小石が当たる。
人気のない道路は夕焼けに染まって綺麗だった。

ははあ、とため息をつく。

顔が赤いのは、たぶんもう治ったとは思う。
…どきどきするのも、もう、だいじょうぶ。

でも、蓮の前に戻ったら――――きっとまた、さっきみたいになってしまうのだろう。

しゅんと項垂れながら、は道端にしゃがみこんだ。
組んだ腕の間に顔をうずめる。

「…わたし、病気なのかな」

せっかく元通りになったのに。
あんな風じゃまた―――蓮のことを、悲しませてしまう。

本当はもっと話したいのに。
もっと傍にいたいのに。

なのに―――

それをしようとすると、何故か焦りばかりが心を占めて。
もともと話すのも上手い方ではないのに、更に輪をかけて口下手になってしまう。
顔も熱くなって。

(…また風邪?)

でも寒いわけではないのだ。
雪山の時のような、ぞくぞくするような気持ちの悪い熱ではなかった。





――――――でも




『お前が話したくなったら―――話せ。あいつらもきちんと待っている』
『その時は俺も、お前の側にいる』

ふと、の口元が微かに綻んだ。
思い出すだけで、あったかくなる。
落ち込んでいた気分が――――少しだけ、明るくなる。

きっとこれを嬉しいというのだろう。

受け止めてくれようと、した。
自分自身でもまだ受け止めきれなかったものを、彼は、一緒になって受け入れようとしてくれたのだ。

なんて強い人なのだろう。
なんて―――優しい人なのだろう。

…あの距離も、壁も、すべては―――自分を傷つけないために、彼が選んだことだった。

それを聞いた時、嬉しいと感じると同時に、は。
申し訳なくも、思ってしまった。

だから、

もう彼に心配をかけないように
もうこれ以上気遣ってもらわないように

強くなろうと、思った。
それは、戦闘能力のことではない。
簡単に傷つかない、強い心――――それがあれば、きっともうお互いがお互いを思い過ぎて、苦しくなったり悲しくなったりすることもないのだろうと。
そして―――また一緒に過ごせるのだと。
は、思ったのだ。

「…………よし」

あの時の気持ちを思い出して、は立ち上がった。
強くなるなら、まずは―――ちゃんと相手の顔を見れるようにならなければ。
そう決意して、蓮達のところに戻ろうとした時、



「何とも美しい夕焼けだと思わないかね。まるで流れる鮮血のようだ」



「……!」

危なかった。
もう少しで悲鳴を上げるところだった。

「…え、と」

恐る恐る振り返ってみると、そこには長身痩躯の男が一人、佇んでいた。
一体いつの間にそこにいたのだろう。気配すら感じなかった。
の視線に気付いたのか、男がゆっくりと此方を見、そして――――微かに口許を綻ばせた。
洗練された、上品な微笑だった。

「失礼。驚かせるつもりはなかったのだが」
「あ、いえ…」

地元の人間だろうか?
少しずつ静まってきた鼓動に胸を撫で下ろしつつ、は曖昧な相槌を打つ。
黒いマントに、ジャボの付いたシャツ。余り見かけない、何となく古めかしい服装のように思えた。

―――その時、ふと、は不思議な匂いを嗅いだ。
錆びた鉄のような、金属染みた、微かな匂い。
だけどそれはすぐ風に掻き消えてしまい、何の匂いなのかまではわからなかった。

「近くに住んでる方ですか…?」
「いや、故郷はルーマニアだ。今は主に付き、旅をしている最中なのだ」
「旅を…」

じゃあ、わたしも一緒です。
そう言おうとして――――コトン。
小さな音を立て、何かが男の足元に落ちた。
慌てては屈んでそれを拾い、まじまじと見つめた。

艶やかな銀色をした、小さなロケット。
蓋には竜のような生き物が彫られている。
相当古い物なのか、ところどころに小さな傷があった。

「これ…」
「おや、すまない」

男はから渡されたそれを、大事そうに懐にしまった。
その手つきから、かなり彼が大切にしているものなのだと察する。

「……私の、父の形見なのだよ」
「あ…」

の疑問を見抜いたかのような言葉に、は赤くなった。さっきの蓮とのことといい、顔に出過ぎやしないだろうか。
そんなの様子に男はふっと微笑むと、

「勇敢な父だった。最期まで、私や、私の母を守ってくれた」

遠い目だった。
過去を懐かしむような、愛おしむような―――それでいて、かすかに翳りのある表情。
その何とも言えない複雑な顔に、は紡ぐ言葉を見失ってしまう。

「……立派な、方だったんですね」

それぐらいしか言えなかった。
元より、男がそこまでの思いを込めて、思い出すような存在だ。
その視線の先に何が浮かんでいるのかはわからなかったが―――きっと彼にとって決して忘れられない記憶なのだろう。

守るという行為。
とて知っている。
そこにどれだけの勇気と、思いやりが込められているか。
だから―――死ぬ時までそれを貫いた彼の父は、本当に凄い人間だったのだろうと、純粋に思った。

ふと、男がを見た。
ひどく静かな、それでいて不思議な目だった。

「…?」

その瞳に宿る何かを、読み取ろうとして。

「――――やはり貴女は、私が思っていた通りの方だ」
「……!」

男は小さく呟いたと思うと―――その場に跪いて、あろうことかの手を取り、その甲に唇を寄せた。
は、再び寸での所で悲鳴を呑みこむ。
けれど身体は驚きで固まったまま、ただ男を凝視した。

男は、微笑む。
とても―――満足げに。



「早く貴女には、ハオ様の元へ帰ってきて頂きたい」



(え―――――?)

は耳を疑った。
今―――今、目の前のこの彼は、何と言った?

「私の名は、ボリス。ボリス=ツェペシュ=ドラキュラ。お見知りおきを」

そう告げた後―――

「あ、れ…?」

瞬きをした、その一瞬のうちに。
ボリスと名乗った男の姿は、目の前から忽然と消えてしまった。
まるで―――霧のように。

「………蓮…!」

冷たい風に、スッと背筋が寒くなる。
彼はハオの名前を出した。きっとハオが差し向けてきた―――新しい敵。
早く皆に知らせなければ。
はようやく硬直から抜け出すと、その場から逃げるように走り出した。

遠くの方に、夕闇の中を飛び回るコウモリ達が見えた気がした。